「フランダースの犬」日本人だけ共感…ベルギーで検証映画

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20071225i302.htm

モトケンブログ

http://www.yabelab.net/blog/2007/12/25-102201.php

経由で知りました。以前から指摘されていたことですが、なかなか興味深い問題です。

物語では、画家を夢見る少年ネロが、放火のぬれぎぬを着せられて、村を追われ、吹雪の中をさまよった揚げ句、一度見たかったこの絵を目にする。そして誰を恨むこともなく、忠犬とともに天に召される。原作は英国人作家ウィーダが1870年代に書いたが、欧州では、物語は「負け犬の死」(ボルカールトさん)としか映らず、評価されることはなかった。米国では過去に5回映画化されているが、いずれもハッピーエンドに書き換えられた。悲しい結末の原作が、なぜ日本でのみ共感を集めたのかは、長く謎とされてきた。

映画のプロデューサーによる「日本人は、信義や友情のために敗北や挫折を受け入れることに、ある種の崇高さを見いだす。ネロの死に方は、まさに日本人の価値観を体現するもの」というコメントが紹介されていますが、ちょっと違うんじゃないかな、と思いますね。
そもそも、日本人の多くは、ネロの死について、「共感」はしておらず、そういった死に方をすべきではなかった、不条理であり、避けられるべき死であった、という感覚で捉えているでしょう。「共感」ということとは違うと私は思います。
むしろ、日本人の「死」に対する意識の中に、人はいずれは死ぬ存在であり、生きることと同等、あるいはそれ以上に美しく死にたい、という願望、死に対する一種独特の美意識があって、そういった美意識に、ネロの死が、正に琴線に触れるような形で受け入れられたのではないか、という気がします。
死について、すべての終わり、敗北、といった捉え方しかできなければ、ネロやパトラッシュの死も、上記の記事にあるような「負け犬の死」でしかなくなります。しかし、そうではなく、清く、正しく、誠実に生き、志半ばに倒れはしたものの、最期に、神の恵みか、ルーベンスの名画を目にすることができ、心安らかに従容として死を迎えた、その気高くも美しい(この「美しい」という感覚が日本人独特のものではないかと思います)姿に、多くの日本人が魅せられるのではないかと思います。
死というものを正当化するわけではありませんが、こういった一種独特の美意識を踏まえて見ることで、一見、理解困難な行動が、なるほどと理解できる、という日本史上の出来事も少なくないのではないか、とも思います。
例えば、赤穂浪士の行動を見ても、吉良邸討ち入りにより、彼らが得られるものはなく、主家再興の見込みもなく、待っているのは自分たちの「死」だけです。こういった行動を、ネロを「負け犬」視するような人々に評価させれば、何の益もない愚かな行動にしか見えないでしょう。しかし、赤穂浪士は、吉良邸に討ち入り、吉良上野介を討ち取ることにより、武士としての意地を見せ自分たちの存念を広く世間に知らしめて、切腹という武士としての名誉を保った死を与えられることで、限りある生を終え、永遠に日本人の心の中で生き続けることになったものであり、正に、日本人の美意識の琴線に触れる存在と言っても過言ではないでしょう。
最近、ジャパン・クールということがよく言われますが、こういった独特のカルチャー、美意識も、ジャパン・クールの一環という位置づけが、今後、される可能性もないとは言えないでしょう。