忠臣蔵の名場面「山科の別れ」の真相とは… 大石内蔵助の新発見書状で判明

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120103-00000549-san-soci

以上の内容から読み取れる新事実は、「山科の別れ」で豊岡に向かったのは理玖と長女、くうの2人だけで、ドラマで登場する次男、吉之進と次女、るりの姿はなく、大石側と石束側の家来2人ずつを加えた6人からなる里帰り旅だったことだ。はっきりしていなかった日付も4月14日と確定した。
内蔵助や理玖の親類関係の史料を丹念に読み解いている瀬戸谷さんによると、このとき、吉之進は豊岡の理玖の実家に、るりは山科の親類の進藤源四郎の養女にされていたことが別の史料から推測でき、発見された内蔵助書状はそれを裏付ける決め手になるという。
当時は罪を犯せば家族にも罰がおよぶ時代。山科の別れは、妊娠7カ月の理玖の無事な出産だけでなく、幕府への反逆ともとられるであろう討ち入りの累が妻や子供に及ぶことを避ける意味があった。
かわいい盛りの次男次女をすでに安全な場所へ手放し、実務を無駄なく記しつつも義父への感謝や配慮が込められた内蔵助の文章は、温厚で用意周到といわれる内蔵助の人柄をそのまま伝えているようだ。

平和な昼にはあまり役に立たない行灯も、刃傷事件で突然訪れた赤穂藩の闇夜を照らす明るい光になったことは忠臣蔵の通り。その光が妻や子供たちも包み込んでいたことを、内蔵助の手紙は伝えている。

忠臣蔵に必ず出てくる名場面ですが、手紙により判明した事実を見ると、なるほどと思わせるものがあり、また、討ち入りへ向け周到に準備を重ねていた大石内蔵助の手堅さもよくわかりますね。
昨日の午後から夜にかけて、テレビ東京で放映されていた忠臣蔵を観ていて、改めて、吉良邸討ち入りという困難なプロジェクトが実行され成功するにあたり、様々な意見を持つ人々を、抑えるべきは抑え、切るべきは切りつつ束ねた大石内蔵助のリーダーシップ、人がついて来る人格、識見といったことを痛感しました。大石内蔵助がいなければあり得なかったと言っても過言ではないでしょう。
明日は、事務所近くの泉岳寺へ参拝してから、今年の仕事を始めたい(と言いつつ先ほどテレビの取材を受け既に始動してはいるのですが)と思っています。