http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090311/crm0903110923006-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090311/crm0903110923006-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090311/crm0903110923006-n3.htm
産経新聞の過去記事をデータベースで調べてみると、「国策捜査」が初めて記事中に登場するのは、平成8年5月30日の朝刊(東京本社発行版)。バブル崩壊の不始末で巨額不良債権を抱えて破綻(はたん)した住宅金融専門会社(旧住専)をめぐる不正融資事件を伝える記事だった。
巨額な不良債権処理に伴って、破綻した金融機関に公的資金を注入する際には、不正融資などを行った経営陣の刑事責任の追及が、相次いでセットになって行われた。
ちょうどその頃、私は、所属していた公安部から特捜部へ応援に出されて、連日連夜、膨大な住専関係の資料を検討する生活を続けていました。「国策捜査」のスタートとも言える事件の内偵捜査に従事していたということになり、その私が、担当する事件で国策捜査について論じたり、ブログで国策捜査について言及したりしているというのも、見方によっては皮肉なものと言えるかもしれません。
歴史的にも、また、現在の多くの国でも、社会的に誰かを抹殺したい、葬りたいと思った際には、犯罪者のレッテルを貼り、立件、起訴して有罪に追い込み、汚名の中で消し去るのが手っ取り早く、捜査というものはそれだけの威力を発揮するだけに、「国策」をはじめとする様々な不明朗なものの影響を受けやすく、実際に受けてきているという側面があります。その中で、日本の検察捜査というものは、厳正公平に行われていると思われてきた面があり、マスコミの礼賛、提灯記事の影響もあって、良いイメージが先行してきたという面があったものの、住専捜査あたりから、徐々に、捜査というものの醜い本質が、メッキが剥げた後のように姿を現わしてきて、現在に至っていると言えるでしょう。
こういった不信感が、一旦、根強く持たれてしまうと、それを払拭するのは至難の業であり、捜査の在り方そのものを根本的に変革するくらいの覚悟で臨まないと、その辺を走り回っている小学生あたりにまで、「とくそうぶ、って、こくさくそうさ、をやって、やっていないひとをやってることにするところ?」などと言われかねないでしょう。