http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060903i102.htm?from=main1
ボードウィン博士は1870年、東京で西洋医学を教える傍ら、医学校と病院の建設予定地だった上野の山を訪れ、公園として残すよう政府に進言。その後、建設計画は中断したが、76年に上野公園が開園した。
功績をたたえる銅像は1973年、オランダ大使館などが公園指定100周年を記念して同公園の中央噴水広場西側に建立した。しかし、84年、その顔が弟のA・J・ボードウィン(1829〜90年)と取り違えられていたことが研究者の指摘で判明。本人になく、弟が蓄えていた豊かなあごひげが決め手だったが、約33年にわたって「弟」のままだった。
お兄さんのほうのボードウィンは、確か、暗殺者に襲われ重傷を負った大村益次郎(その後死去)の手術を担当したと記憶しています。司馬遼太郎の「花神」で読んだ記憶があります。医学の上での我が国に対する貢献にも多大なものがあるでしょう。その意味でも、取り違えが是正され、正しい銅像に建て替えられて良かったと思いました。