裁判員裁判・雑感

現在、横浜地裁で係属中の、ある強盗致傷事件(他に強盗事件もあり併合審理)を私選で受任していて、横浜地裁で行われている打ち合わせに出ています。今月中に、正式な公判前整理手続が行われて、今後、裁判員裁判へと進むことになります。
事件の進行自体は順調で、裁判所にも検察官にも、今のところ特に問題はありませんが、やっていて、こういう裁判で本当に良いのか、と思う面があります。
先日、某全国紙の記者が、裁判員制度について連載記事を掲載する関係で話を聞きたい、ということで事務所に来た際にも言ったのですが、「裁判員制度」という枠の中でおさまるように、証拠をはじめ、あらゆる物事が中途半端な形で詰め込まれてしまう、という不満がどうしても残ってしまう、ということを、やっていて強く感じます。わかりやすく言うと、いろいろな点で性能が良い車が作れるにもかかわらず、車のサイズがこの程度でしかないから、価格もこの程度に抑えたいから、ということで、エンジンも中途半端、各種装備も中途半端な車を無理矢理作らされている、という感じでしょうか。
従来の「精密司法」というものを礼賛するつもりはなく、あれはあれでいろいろな欠点を持ってはいましたが、しかし、裁判員裁判になるような重大事件について、捜査を緻密に行い、捜査機関が収集した証拠が充実したものとして法廷へ出され、それについて、被告人、弁護人が争うべきは争う中で、その事件、被告人に関する事実が解明される、そのためには必要な時間も手間もかけ、裁判所が充実した審理に基づいて慎重に判断する、といった従来のやり方が、それほど間違っていたのだろうか、それを捨てて、今、やっていることが、本当にあるべき裁判で、国民にとって利益になることなのか、ということについて、強い疑問を感じずにはいられません。
従来の裁判が、オーダーメードの1着を買い求めるようなものだとすれば、裁判員にわかる範囲、理解できる範囲で証拠を出して3日、4日でさっさと判断してもらいましょう、という裁判は、その辺で売っているものを適当に買って行きましょう、といったようなもので、人のかけがえのない人生、運命が、そのようなお手軽な決め方をされてしまって良いのか、という疑問を、今の私は払拭することができません。