「精密ではあるが正確ではない刑事司法」なのか?

小倉弁護士のブログで取り上げられていた

http://benli.cocolog-nifty.com/benli/2004/12/post_15.html

について。
先日、亡くなられた平野龍一先生の受け売りのようになってしまうが、結局、「どこで真実を発見しているか」についての、考え方の違いがあると思う。日本の現行刑事訴訟法のそもそもの考え方や、世界的にスタンダードな考え方は、おそらく小倉弁護士のような内容になるだろう。
しかし、日本の裁判所や検察庁の考え方は異なっている。
まず、検察庁は、捜査段階でできる限りの真実を発見する、という目的意識と信念に基づいて行動する。検察庁なりの「実体的真実」を追及しているのである。ただ、対立当事者によるチェック、といった機能が働かないため、独善とか思い込みに陥る危険性を常に持っている。検察庁として、「解明した」と考えているものは、あくまで「検察庁から見た」真実ということになる。
日本の場合、裁判所は、「真実を解明する場」ではなく、「検察庁が解明したと考えている真実を、チェックする場」になっている。ただ、日本の場合、有罪率が極めて高く、法廷で検察官が提示するものは、ほとんど間違いなく真実、という一種の刷り込み、思い込みが裁判所を支配しているし、裁判所自体に、法廷で徹底的に審理を行って真相を解明する、という機能も意欲もないため、上記のような「チェック」も、常に低調なものにとどまる。そもそも、検察庁が真相を解明している、という刷り込み、思い込みに基づいて運営されるので、証拠開示を徹底的に行い、弁護人にチェック機能を果たさせよう、といったモチベーションも働かず、そういう点で熱心な弁護人は、結託した裁判官と検察官に、徹底的に嫌われ、陰に陽にいじめられることになる。
弁護人が熱心な弁護活動を行う、ということ自体が、裁判所や検察庁にとっては不愉快なことであるから、時々、そういった弁護人がいると、徹底的に嫌われて、例えば、先日のwinny正犯判決のように、書く必要も何もないのに弁護人の弁護活動を露骨に批判したり、といったことも起きる。そういった「余計なこと」がしたいのであれば、時々判決で認定される警察官の偽証とか証拠ねつ造、といったことについても、判決で徹底的に批判して、検察庁に対し徹底捜査を強く望む、といったことをやっても良いと思うが、裁判所はそういうことはしないものである。判決で弁護人を批判するような裁判官は、最高裁にも検察庁にも受けがよいが、判決で検察庁や警察を批判するような裁判官は、そういう方面の受けは悪いものだし、次第に冷や飯街道をばく進するようになる、そういうものである。
申し訳程度に開示された証拠では、弁護人としては材料不足で、やりたいことは不発に終わり、結局、検察官が真実と思い描いたストーリーが裁判所によって「認証」され、確定すれば「確定判決」ということで動かし難いものとなる。確定判決に誤りがあるはずがない、といった一種の「神話」があるので、再審を求めても、なかなか開始決定が出ない、ということになるのは必然である。
こういう経緯で形成された確定判決なので、裁判所、検察庁にとっては満足行くものである反面、弁護士にとっては、やりたいこともできず、開示証拠も制限され・・・と、いわば手足を縛られて泳がされているような状態下で形成されたという意識を持たざるを得ないことになり、とても「真実が解明された」とは思えない、という事態が頻発することになる。上記の小倉弁護士のブログは、そういった弁護士が抱いている不信感、不満の典型的なものである。
こういった現状について、今後、裁判員制度導入などにより、何がどう変わるかが課題になる。やってみなければわからないが、一つ指摘しておきたいのは、裁判員制度導入などにより、刑事の1審がかなり変わり、現在よりも無罪が多く出るようになっても、控訴審や上告審の在り方については、今の流れでは変化がない、ということである。
私見では、最高裁法務省は、司法改革の流れの中で、刑事の1審は、一種の「国民のおもちゃ」として与えておいて、裁判員チョンボ(裁判所や検察庁から見て)等により是正すべきと考える判決などが出れば、控訴審(主として)、上告審で、職業裁判官の手により徹底的に是正させる、というスキームを狙っているのではないかと見ている。
今後も検察官控訴は制限されないようであるし、控訴審、上告審で、事実誤認とか量刑不当を理由に、裁判所が「間違っている」と思った判決は相当広範囲に破棄し、自判(1審に差し戻さず上訴審で判決を下してしうまうこと)もできるので、いくら、1審で裁判員が努力に努力を重ねて審理、判決に至っても、上訴審で、「こんな馬鹿げた判決はないだろう」と言われてしまえば、それでおしまいである。裁判員制度といっても、所詮、その程度のもので、仏様の手の平の上で遊んでいる孫悟空のような存在でしかないと言っても過言ではない。
一審でいくら頑張って無罪判決を得るような状況になっても、控訴審で次々と破棄されて有罪、といったことになれば(中には間違った無罪もあるとは思うが)、何のための司法改革か、ということになりかねないが、そういった一種の「悪夢」のようなことが起きる可能性は極めて高いと私は予想している。