福沢諭吉は北里柴三郎の大恩人 「恩返しでは」孫が語る

福沢諭吉は北里柴三郎の大恩人 「恩返しでは」孫が語る(朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

柴三郎はドイツ留学から帰国後、福沢の支援で研究を再開し、結核の病院をつくった。

以前に、東京都港区にある北里研究所病院へ知人のお見舞いに行った際、そこにある北里柴三郎の資料室を見学したことがありました。また、その頃、この人物に興味を感じ、資料も入手して読んだこともありました。 

その際の記憶で書くので、やや不正確かもしれませんが、人物としては豪放磊落で、今なら「パワハラ」になるような言動も多かったようで、確か「雷おやじ」的なニックネームがついていました。しかし、国立の研究所を飛び出して自前の研究所を設立した際には、スタッフは皆ついてきたとのことで、人望のある、人がついてくる人物だったのでしょう。

数々の特許を持ち、裕福な中、自宅近くの川で、橋がなくて子供達が遠回りしているので、子供好きな北里柴三郎が、自費で橋をかけ、そこに自分の名前をつけたりせず、「勉強橋」と名付けたエピソードには人柄が偲ばれると思いました。

ドイツに留学した際に師事した細菌学者のコッホが来日した際、既に年老いて影響力も低下していたコッホを大いに歓待して、日本のあちらこちらに案内したとのことで、恩を忘れない、義に厚い人物でもあったようです。

私の好きなタイプの人物であり、お札の「顔」になるのは嬉しいことです。