9月29日の午後に開催されたこのシンポジウムを聴きに、大阪まで行ってきました。その際に、聴きながら状況をツイートしたものが、下のまとめエントリーでアップされています(聴きながらの入力なので十分反映されていないところもあり、あくまで参考として見てください)。
最近、増えつつある、性犯罪での無罪判決が、かなり批判的に検証されていて、その内容が、解釈論、制度論、立法論など幅広い範囲にわたっていて、こういうことを一生懸命考えている人がいるのだな、ということを含め、かなり参考になり、興味深い内容でした。
ざっくりと私見(印象)を言うと、最近の無罪判決の増加は、従来、性犯罪で被害者供述がかなり偏重、過度に信用されて微妙な事件でも強引に有罪認定がされがちであったことへの、一種の反動、揺り戻しではないか(それだけに行き過ぎもあるのではないか)、と見ています。この種の刑事事件を、「被害者」の視点からのみ光を当てれば、被害というものが理解できない人々は、ジェンダー・バイアスの持ち主で無罪判決は女性差別でしかない、ということになるのでしょう。しかし、性犯罪に限らず、被害者や目撃者、といった、立証構造上、限られた人の供述の信用性が問題になるタイプの事件は少なくなく、そういった立証構造の中で、そういった人の供述の信用性が否定されたから、即、偏見だ差別だ、と決めつけていては、刑事裁判というものは成り立たなくなるでしょう。そういった決めつけと、証拠としての評価の在り方や適正さ、信用性評価の基準、といったものが、常に批判的に検証されなければならないこととは、切り分けて考えられなければならないと思います。
その意味では、従来、被害者が嘘をつくはずがないと決めつけたり、具体的で迫真性がある、などと印象論などで信用性を肯定していた、大雑把な在り方は問題がある一方、本シンポジウムで指摘されていた、確かに、ジェンダー・バイアスがかかっているような、被害者供述の信用性否定に当たり枝葉末節的な事情が過度に重視されているような評価の在り方も、大いに反省されなければならないのではないか、ということは感じました。
現状で、有罪、無罪の判断を分ける上での基準が明確になっていない、それ故に判断にぶれが生じている、ということが、今後、裁判例の分析がさらに進み不明確なものが明確化されることで、より適正化されなければならない、ということは、本シンポジウムを通じ、強く感じました。
性犯罪、特に強姦罪、強制わいせつ罪の成立要件のハードルが高すぎるとして、被害者保護のためそれを下げようという動きが、一部で活発のようであり、そうした動きや考え方は本シンポジウムの中でも紹介されていましたが、検察庁在籍当時から、この種の事件も多数取り扱ってきた私自身の経験にも照らし、こういった「性」が絡む事件では、被害者がどこまで真に被害にあっていたのかが微妙な事件も多く、慎重に検討しなければならない問題ではないか、ということは率直に感じています。