国松長官事件 初動に不備と結論 警視庁、検証報告書公表

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110219-00000000-maip-soci

15年間の捜査は「オウム真理教の犯行」との見立てで行われ、事件1年後に「自分が撃った」と供述した元信者の元巡査長がポイントになった。だが変遷する供述に対応できる物証はなく、見立ての裏付けは取れずに捜査は迷走。検証でも供述頼みの捜査の影響に触れざるを得なかった。
捜査に長年携わった警視庁OBは「元巡査長が初めて関与を認めた時が捜査の分岐点だった」と当初の捜査の問題が後々影響したと認めている。

あれだけ捜査が迷走してしまっては、今更、何をどうすればよかったのか、論じることすら困難という気が強くしますね。
捜査は、終始(最後のほうで別の可能性が浮上していましたが)、オウム真理教による組織的な犯行という、強烈な見込みの下で展開されましたが、そもそも、この種の事件の捜査というものは、あらゆる可能性を視野に入れ、可能性がないものは、ないことについて根拠を確認しながら消し去り、捜査対象を絞り込んで行くべきもので、警察庁長官という、敵対し殺害の動機を持つ勢力が多い対象者について、オウム、オウムと見込みの動き走り回った捜査そのものが、果たして妥当だったかが問われなければならないでしょう。仮に、オウム真理教の関係者の中に関与者がいたとしても、そういった慎重な姿勢があれば、別の構図も浮かんできた可能性もあり、見落としていた点、証拠の発見にもつながった可能性はあるのではないかと思います。
警察が威信をかけ総力を挙げても、結局、この程度ということで、残ったのは警察の威信失墜と、警察に対する拭い難い不信感であったということになると思います。