崩壊危機、「戦艦大和」の慰霊塔を修復へ…徳之島

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091213-00000589-yom-soci

「当時は『英霊がここからずぶぬれで帰ってくるのではないだろうか』と考えながら設計した。町の人が大切にしてくれて本当にうれしい」と中村さん。父が、大和と共に沈没した軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」の乗組員だった横浜市泉区の西岡登志美さん(66)も「これで安心して父たちの慰霊を続けられる」と感謝した。
伊仙町の大久保明町長(55)は「次世代に二度と戦争はしてはならないと伝えるためのシンボルとして守っていきたい。戦後65年となる来年の慰霊祭は盛大に行いたい」と話している。

戦艦大和を旗艦とする第二艦隊の沖縄特攻作戦については、以前、本ブログでも

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20051218#1134835250
http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20070916#1189905178

とコメントしたことがあります。勝算に乏しい作戦ではありましたが、沖縄から海軍の大田中将が発した訣別電にあるような、沖縄県民すら献身的に協力しているような状況下、あの作戦以外の選択肢はなかったような気がします。私が、当時、この特攻作戦への参加を求められたとすれば、かなり悩んだと思いますが、人間、生きるべき時もあれば死ぬべき時もある、自分は良い死に場所を与えられたと考えて、粛々と大和に乗り込んだのではないかと思います。
この作戦に参加した将兵尊い犠牲を長く顕彰するためにも、慰霊塔修復には大きな意義を感じます。