三方ケ原 家康、最大の敗戦を教訓に

http://www.asahi.com/travel/kosenjo/TKY200906290188.html

1572(元亀3)年10月、武田信玄率いる2万5千の軍勢は甲府を出陣。信州を経て遠江静岡県)に入り、12月22日、家康のいる浜松城の北、三方原へ。旗本の大久保彦左衛門が著した『三河物語』によると、兵力が少ないゆえに戦いをいさめる家臣たちに、家康は「自分の国をふみ破って通るのに多勢だからといってどうして、出陣して、とがめないでおかりょうか」と戦う決意を述べた(教育社版、小林賢章訳)。

大敗北とされるが、酒井忠次本多忠勝石川数正ら有力な武将はほとんど死んでいない。小楠さんは「それほどの大敗北ではなかったのでは。天下人があえて敗北を強調するのは、教訓をこめたかったからではないか」。家康がこの敗戦後、慢心を戒めるために描かせたという肖像が、名古屋市徳川美術館に残っている。

徳川家康の数々の戦歴の中で、最大の敗北と言えると思いますが、なぜ、籠城せず戦いを挑んだかについては、やはり、同盟関係にあった織田信長の手前、座視できなかったというのが真相ではないかという気がします。三河物語は、そのあたりが美化されて描かれているのでしょう。
徳川美術館にある「しかみ像」は、以前、実物を見たことがあり、額に入った複製も持っていますが、

http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=18704

「慢心の自戒として生涯座右を離さなかった」かどうかの真偽はともかく、いかにも徳川家康らしいエピソードであり、こういった謙虚さ、慎重さが、戦国の世における最後の勝利者になることへとつながったことは間違いないでしょう。