たかが人形になぜ夢中 カーネルおじさんに重なるあの頃

http://www.asahi.com/national/update/0314/OSK200903140105.html
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阪神私設応援団元代表で、兵庫県尼崎市で板金工場を営む西河秀文さん(65)は85年のあの日、神宮球場で優勝を味わった。カーネル人形の救出劇を見て「朝から晩まで真っ黒になって働き、試合も欠かさず見たなあ」と懐かしい思いがこみ上げた。
15歳で集団就職香川県から大阪に出てきた。34歳で工場を構え、85年のプラザ合意を機に生まれたバブル景気に乗って、一時は従業員を20人雇った。だが、バブル崩壊とともに目の病気を患い、不況で仕事を縮小し、応援団も離れた。「沸き立ったあの時代、私も脂ののりきったあのころにかえりたいなあ」

昭和60年(1985年)といえば、上記の記事にあるように、バブル経済へ向かって日本全体が大きく舵を切った年でもあり、その後の上り坂のスタートに立った年であったということも言えるように思います。平成3年当時のバブル崩壊まで、日本全体が沸き立っていたもので、今なお、当時を懐かしむ人々が少なくないのはわかる気がします。
私は、今月で45歳になりますが、振り返って思うと、自分の将来や法曹界といったことに、明るく牧歌的な希望を抱いていた昭和60年当時(その年の3月で21歳)に戻りたい、という気もして、記事にある「沸き立ったあの時代、私も脂ののりきったあのころにかえりたいなあ」という言葉には、強く共感を覚えるものがありました。
しかし、人は過去に戻ることはできず、人生をやり直すこともできないのであり、過去への思いは思いとして、前を向いて生きて行かねばならず、「カーネル出現」も、前向きに捉えたい、捉えなければ、と思いました。