大分教委汚職 生徒に「心」の大切さ説く

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080917-00000016-maip-soci

一方で「心」を説き、3学期末には「(勇敢な)心」としたためた小さな色紙を全男子生徒に贈ってくれたことが忘れられず、記者は今でもその色紙を大事に持っている。

記者は事件前から県教委の担当で、取材時は「審議監」でなく、「先生」と呼ぶことも多かった。恩師を容疑者と呼ぶ事態になったことに、怒りだけでは片づけられない、苦い思いを味わっている。

色紙で勇気を持つことを教えてくれた先生の「心」にいったい何があったのか。その胸の内を知りたい。

恩師であると同時に、取材対象である被疑者、ということで、この記者の揺れ動く気持ちが記事に現われているような気がします。あの先生が、なぜこのような事件を、という自問自答が繰り返されているかもしれず、そういった思いを抱いている教え子はかなりいるでしょう。そういった人々の思いに、この審議監は真摯に向き合い応えて行くべきではないか、と思います。
私は、社会に出た時から、様々な刑事事件を取り扱い、様々な被疑者、被告人と接してきましたが、世の中には、100パーセントの善人もいないし100パーセントの悪人もおらず、多くの人は、善の部分をより多く持ちつつも、人間としての欲望、弱さも併せ持って、運とか巡り合わせなど自分を取り巻く状況の中で、つい犯罪に手を染めてしまうという、そういうものではないかと思っています。人間の中にある悪が善を凌駕して犯罪に走るようなことがあっても、多くの人は、元々、善の部分をより多く持っていますから、自分自身を取り戻すことで、再び善の道を歩み始めることができるし、そう信じたい、とも思っています。「罪を憎んで人を憎まず」と言いますが、私自身は、このことわざを、ここで述べているような文脈で捉えている面があります。
この事件で、審議監がいかなる刑事責任を負うのか、今後の捜査に待つしかありませんが、悪が善を凌駕してしまった面があったのであれば、教え子たち一人一人に「心」としたためた小さな色紙を贈っていた当時の、自分の中にあった善というものを、是非取り戻してほしい、と思いました。