http://mainichi.jp/select/today/news/20080820k0000e040014000c.html
最大の争点は「胎盤剥離(はくり)を中止し、子宮摘出手術などへ移行すべきだったか」。検察側が「癒着胎盤と分かった時点で剥離を中止すべきだった」と主張したのに対し、弁護側は、胎盤剥離後の子宮収縮による止血効果などを挙げ「胎盤剥離を完了するのが医療現場の裁量として合理的」と反論した。この他、大量出血の予見可能性や医師法21条の適用などを巡り、意見が対立した。
証拠関係に接していないので、感想の範囲内でしかコメントできませんが、この事件を評価する上で重要なのは、記事にも解説があるように、癒着胎盤の発生率が数千〜1万例に1例と極めて低い、ということでしょう。そういった希有なケースについて、医師の対応方法というものがどこまで確立していたか、ということになると、検察官が主張するように、癒着胎盤と分かった時点で剥離を中止すべきだった、と直ちに言えるかについては、当然、疑問が生じてくるように思います。
専門家が、非常に難しい場面に立たされた場合、いくつかの選択肢の中から、咄嗟に何らかの方法を選択しなければならない、ということは起きてくるものですが、そうしたケースについて想定されるべき予見可能性というものは、後付けの理屈、結果論で決められるべきものではなく、様々な不確定、流動的な要素を短時間に検討し決断するというプロセスを経ている、という、行為者の置かれた厳しい状況を十分踏まえても、なお専門家として尽くすべき注意義務に反していた、予見可能性が十分あったにもかかわらず見落としていた、ということでなければならないように思います。
そういった意味で、この判決には重みを感じるとともに、今後、検察官が控訴するのであれば、控訴審の判断についても注視したいと思います。
追記1:
http://www.asahi.com/national/update/0820/TKY200808200207.html
http://www.asahi.com/national/update/0820/TKY200808200207_01.html
を読んでいたところ、
医師に医療措置上の行為義務を負わせ、その義務に反した者には刑罰を科する基準となり得る医学的準則は、臨床に携わる医師がその場面に直面した場合、ほとんどの者がその基準に従った医療措置を講じているといえる程度の一般性、通有性がなければならない。なぜなら、このように理解しなければ、医療措置と一部の医学書に記載されている内容に齟齬(そご)があるような場合に、医師は容易、迅速に治療法の選択ができなくなり、医療現場に混乱をもたらすことになり、刑罰が科される基準が不明確となるからだ。
この点について、検察官は一部の医学書やC医師の鑑定に依拠した準則を主張しているが、これが医師らに広く認識され、その準則に則した臨床例が多く存在するといった点に関する立証はされていない。
また、医療行為が患者の生命や身体に対する危険性があることは自明だし、そもそも医療行為の結果を正確に予測することは困難だ。医療行為を中止する義務があるとするためには、検察官が、当該行為が危険があるということだけでなく、当該行為を中止しない場合の危険性を具体的に明らかにしたうえで、より適切な方法が他にあることを立証しなければならず、このような立証を具体的に行うためには少なくとも相当数の根拠となる臨床症例の提示が必要不可欠だといえる。
しかし、検察官は主張を根拠づける臨床症例を何ら提示していない。被告が胎盤剥離を中止しなかった場合の具体的な危険性が証明されているとはいえない。
の部分は、本件へのあてはめの部分が妥当なものかどうかは具体的な証拠関係を見ていないので何とも言えませんが、その前提となる規範定立部分は、この種の事件の過失を認定する上で、本質的かつ重要な点を指摘しているように思います。
昔から、この種の事件を見る上で、検察庁内では言われてきたことではありますが、改めて肝に銘ずべきことと言えるように感じました。
追記2:
無罪判決に産科医、身じろぎせず 遺族は涙 帝王切開死亡事故
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080820-00000921-san-soci
判決の朗読が始まって5分ほど経った後、うつむいた父親が突然涙をこぼし始めた。感情を抑えられない様子で、ハンカチを取り出しては、涙を何度もぬぐっていた。
私は、刑事司法の世界に足を踏み入れたときに検事という職を選んだせいなのかもしれませんが、こういう話を聞くと、何とも言えず胸に迫るものを感じます。
良い弁護士というものは、こういうときに、無罪になって良かった、正義が実現された、と心の底から思うものなのかもしれませんが、どうしてもそういう気持ちにはなれません。そういう点では、私は、まだ弁護士になり切れていないのかもしれませんが、そういう弁護士が良い弁護士であれば、自分はそういう弁護士にはなれないし、なれないのはやむをえない、とも思います。
先日、ある事件の関係で、前から知っている検事のところへ用があって行って、「最近、年をとったのか、疲れやすくなった」と言ったところ、「いい暮らししているからじゃないの?」と笑われ、確かに、iphoneはいち早く手に入れているし(町村教授には「ご自慢の」と言われましたが確かに自慢しています)、六本木ヒルズでランチは食べているし、これをいい暮らしと言えばそうかもしれない、などと、その後思いました。しかし、そういういい暮らし(と言えるかどうか知りませんが)をする前の私を支えていたのは、上記のような人々の存在であり、そのために頑張らなければならないという強い使命感であったように思います。
今の私は、立場を変え、変わった立場の中で努力していますが、上記のような人々の存在ということに、検察庁という組織が思いを致し、たとえ難しい事件であっても、その気持ち、期待に応えてほしい、という思いは、やはり今でも変わることはありません。