自白調書 検察側が撤回 愛知の放火 裁判員制備え、長期化回避

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2008043002007792.html

昨年十月からの公判前整理手続きで、弁護側は「精神疾患が認められるのに供述調書の内容が整然としている。任意性がなく、供述調書は不要」と主張。地裁側は調書の証拠の採否を留保した。
公判は今年三月から開かれ、山脇被告は被告人質問で経歴や犯行の動機、経緯、違法性の認識などについて証言。検察側は、裁判の迅速化を意図し、自白調書の証拠請求をほぼ撤回。放火の手法など、わずかに請求を残した供述調書も地裁が却下した。

裁判員制度への流れの中で、こういった動きは、今後、ますます強くなりそうですが、かつて検察庁に身を置いたことがある者としては、一抹の寂しさも感じます。検事に任官し、その後、若手検事から中堅検事になって行く中で、私自身の目標は、常に、事案の真相を解明しきちんと事件の実態に即した供述調書を作成する、ということであったと、今振り返っても思います。先輩検事からは、読み手に事件の現場に居合わせたと思わせるような迫真性のある供述調書をとるように、などと言われ、決裁の際には供述調書の中の細かな点まで指摘され、随分と悔しい思いをし、また、反省もして、そういったことを糧としつつ、日々、被疑者や参考人の取調べを繰り返し、真実を、より広く、より深く解明することをひたすら目指したものでした。誤解を恐れずに言うのであれば、そうして作成した供述調書は、真相をパッケージ化して封じ込めたようなものと言っても過言ではなく(常にそうであるとは限りませんが)、検察官立証の柱として検察官調書を据え、あくまでもそれにこだわって行く、ということには、それなりの理由があったはずでした。
それが、いとも簡単に、もう要らないから撤回します、で済まされるという時代に、遂になってしまたんだな、という、一種の寂しさを伴なった感慨を、上記の記事を読んで覚えました。この気持ちは、上記のような経験を、現場でしてきたものにしかわからないかもしれません。