論証ブロックの切り貼り

町村教授のブログ

http://matimura.cocolog-nifty.com/matimulog/2008/03/symposium_048e.html

で、法科大学院での教育や、司法試験で求められる能力などについて、コメント欄も含め、なかなか興味深い議論が紹介されていますが、そこで出てくる「論証ブロックの切り貼り」について、昔のことを知るものとして、ちょっとコメントしておきます。
私が司法試験の受験勉強をしていた昭和50年代末から昭和60年代初めころ、司法試験の論文対策として、予め、論点と言われているものについて、「答案ではこう書く」という内容の論証ブロックを用意しておく、という勉強法が徐々に出てきていたように思います。
誰が提唱しはじめたかは知りませんが、当時、予備校であるLECの人気講師であった伊藤真先生は、既にそのころから推奨していたという記憶です。
私は専らLECを利用していたので、他の予備校のことはよくわかりませんが、当時、LECの中や、水道橋駅の近くにある丸沼書店で、LECから出た各科目ごとの論証ブロック集(「論証フォーム」といった表現をしていたかもしれません)の小冊子を売っていて、私も買って利用していました。
このあたりの事情は、かなり前に

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20041028#1098927710

で書いたことがあります。
私の場合、そのエントリーで書いたように、論証ブロックを準備する勉強にかなりのメリットを感じ、実際にも早期合格の上でかなり役立ったとも感じていますが、弊害としては、暗記に走り、鵜飼いの鵜のように、覚えた論証ブロックを答案上に、ただ吐き出すだけ、という受験生を生んでしまうおそれもあります。
ただ、新司法試験が、そのような弊害に走った勉強で合格できるものとは思えませんし、上記の町村ブログ中のコメントにもあるように、そのような弊害に走った受験生は淘汰されてきた、と思います。いろいろな紆余曲折はありましたが、そういう安直な勉強で易々と合格できるほど、今だけでなく昔も、司法試験は甘くはなかった、ということでしょう。
最近、法科大学院について「不適合」云々という議論になると、答案練習のような司法試験に直結した勉強に法科大学院は関わるべきではなく、もっと深みのある教育を施すべきだ、といった、司法試験やその後の実務家への道を、どこか蔑視するような、昔から司法試験に批判的で、批判するだけで何もしてくれなかった学者の戯れ言を、再び聞いているような気がしてきます。
答案練習、というと、いかにも試験対策、といった印象になってしまいますが、法律の学習を進める中で、学んだことを文書としてきちんと形にできるかどうか、他人にわかるように表現できるかどうか、といった能力は、必須のものであり、司法試験で求められているその種の能力には、学者が書く「論文」とは、また違った面も多々あって、そういった能力をつけることは、司法試験に合格するという狭い目的だけではなく、その後の司法修習や、さらにその後の実務家となった際にも不可欠であると思います。
法科大学院を認証する機関が、そういった事情を、どこまで理解した上で認証を行っているのかは、私のようなしがない弁護士には考えもつかないハイレベルな世界の話ですが、昔からある、法律「研究」を上位に置き、法律「実務」を上から目線で眺め、馬鹿にし、蔑視する、という偏見を引きずっているのであれば、無意味であり、いずれ近いうちに世間から省みられなくなることは確実でしょう。と言っても、私の見解では、法科大学院自体も今のままでは先はないので、一緒に消えて行く、ということになるかもしれません。