TBS番組に会津若松激怒、鶴ヶ城開城「不衛生だから」?

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080328-OYT1T00388.htm

抗議文によると、番組は2月16日に放送された「歴史王グランプリ2008まさか!の日本史雑学クイズ100連発!」。若松城について「旧幕府軍が城を明け渡したとんでもない理由とは」との出題に対し、「糞尿(ふんにょう)が城にたまり、その不衛生さから」が正解とされ、理由のすべてのように放送されたとしている。
菅家(かんけ)一郎市長は記者会見で、〈1〉他藩からの応援の望みが絶たれた〈2〉1か月に及ぶろう城による傷病兵の増加や物資の枯渇――など様々な要因が重なった結果と説明。「視聴者や市民らに著しい誤解や不快感を与えた」とし、市民への謝罪と訂正を求めている。

「理由のすべてのように放送された」かどうかは、問題の番組を見ていないのでわかりませんが、古今東西の落城・開城例を見ていても、糞尿がたまりその不衛生さ「だけで」落城・開城に至った、という話は聞いたことがなく(籠城しているとそういったものもたまって苦労はすると思いますが)、会津若松城も、それだけで開城したわけではないでしょう。
落城、開城に至る例で多いのは、内部における裏切り、内通とか、水や食料の枯渇、戦略・戦術的に籠城している意味がなくなってしまったこと、といったことではないかと思います。籠城中に将兵の士気が落ちてしまう、ということもあるでしょう。そういった種々の事情が積み重なって崩壊寸前に至った時に、攻撃を受け落城する、といったこともあると思います。
以前、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20060119#1137600975

でも少しコメントしたことがありますが、幕末の会津藩は、幕府に対する忠誠を尽くそうとし、あまりにも愚直に動いた結果、全藩あげて悲劇的な結末を迎えてしまい、会津若松城落城の前後で、多くの藩士やその家族が犠牲になり、戦後は青森県内の不毛の地へ全藩が流されてしまい、明治後も苦難の道を歩みました。会津藩最後の藩主であった松平容保は、明治維新後、不遇な生活に耐えながら、孝明天皇から下された宸翰(天皇直筆の文書)を竹筒に入れて首に下げ、唯一の慰めにしてその生涯を終えたと言われています。
会津若松の人々は、このような忍従の日々を送り、秩父宮と、松平容保の孫に当たる勢津子妃との御成婚が決まった際には、会津若松をあげて提灯行列などをして喜び祝った、と言われています。上記のエントリーで取り上げた司馬遼太郎の「王城の護衛者」が世に出た後には、勢津子妃から、実弟を通じ、明治維新後においてこのように公平な立場で会津藩を描いていただいたことはなく礼を言いたい、との連絡があったことも、司馬遼太郎の著作の中で読んだことがあります。
そういった、歴史の真実、重みといったことを考えると、クイズ番組で、笑いを取るためとはいえ、「糞尿が城にたまり、その不衛生さから開城した」などと、おもしろおかしく述べたとすれば、かなり問題であり、TBSは、会津若松の人々を敵に回した時の恐さを、よくかみ締めておくべきでしょう。