都心掘れば、ご先祖さま 建設現場に人骨相次ぐ

http://www.asahi.com/life/update/0310/TKY200803100193.html

江戸時代は土葬が主流で、遺体を一人ずつかめやおけに納めて埋めることが多かった。かめは武士や富裕な町人、おけは庶民用とみられる。
江戸文化に詳しい都市史研究家の鈴木理生さんによると、徳川家康の江戸入城や明暦の大火(1657年)などを機に江戸は都市整備が進んだ。街の拡大に伴い、幕府の命で寺院は引っ越しをさせられたが、その際、ほとんどの墓地が放置されたという。
人々の遺骨への執着も薄かった。「大量に人が流れ込み、そして死んでいく。子孫も続かないことが多く、いちいち構っていられない。それが都市の合理性」と鈴木さん。墓は死者をまつるよりも「死体処理施設」の機能が強く、発掘された墓地跡からは、古い墓の上に新たに墓が作られた例も確認されている。

上記の鈴木氏の本としては、

江戸の町は骨だらけ

江戸の町は骨だらけ

を買って少し読んだことがあります。現代の東京で発見される、江戸時代以前の遺構は、なかなか興味深いものがあり、特に墓地は、当時の日本人や生活振りなどを知る上での情報の宝庫と言え、興味が尽きないという気がします。
おもしろいと思うのは、当時、火事の後の区画整理などで、寺院がよく移転させられる際、墓地については地面の上に出ている部分だけ移転し、土中にあるものはそのまま放置してしまうというのが普通であったことです。かなり急な移転を命じられることが多かった、という理由もあるようですが、その根底には、上記の記事にもあるような、当時の人々の「遺骨」というものに対する、今とは異なる考え方もあったようです。
この種のものが出土すると、簡単に供養はするものの表沙汰にはせず片付けられてしまう、といったことが多いのかもしれませんが、貴重な学術資料であり、できるだけ研究対象として生かしてほしいという気がします。