大阪地裁「自白誘導の疑い」と調書却下 DVD映像で

http://www.asahi.com/national/update/1115/OSK200711150021.html

西田裁判長は今回の公判で、被告が映像の中で「殺そうとは思わんけど」と殺意を否認するような発言もしていたと指摘。一方、取り調べにあたる検察官が「殺そうと思って刺したことに間違いないね」などと何度も早口で尋ねた点を挙げ、被告の供述は検察官によって誘導された、と判断した。さらに被告は高齢で耳が遠く、検察官の言葉を十分に理解していなかった可能性が高いとして、被告の供述調書に任意性はないと結論づけた。

自白の証拠としての取り扱いを検討する上で問題になるのは、「任意性」と「信用性」ですが、任意性は、証拠としての許容性、すなわち、証拠として取り調べを受けることができるかどうかという問題(証拠能力)、信用性は、証拠として取り調べられた自白が、何をどこまで証明できるか、という問題(証明力)ということになります。前者について、よりわかりやすく言うと、自白という役者が法廷という舞台に立てるかどうかの問題、ということになるでしょう。
従来の「任意性」に関する判断例では、かなり強引、威圧的、あるいは侮辱的な取り調べが行われていても、かろうじて任意性は肯定し、問題点は信用性に持ち込んでまとめて判断する、という傾向が強かったと言っても過言ではないと思います。いわば、プロの批評家(裁判官)が、役者をとりあえず舞台に上げて演じさせてみて、プロの目でその当否を判断してきた、という側面があります。
しかし、今後、裁判員関与裁判が実際に実施されることになれば、プロではない人々を眩惑させたり混乱させないためにも、従来のような枠組みは再検討され、「とりあえず舞台に上げて演じさせる」ということはやめましょう、きちんと稽古もせず期待できない役者(取得過程に問題のある自白)は舞台に上げないようにしましょう(却下して取り調べない)、という方向に進む可能性が高いのではないかと思います。
そもそも、証拠能力(自白では任意性)と証明力(自白では信用性)を厳格に峻別するのは、長い陪審員制度の歴史を持つ英米法の考え方であり、職業裁判官以外が関与する裁判制度にあってこそ、そのような峻別が意味を持つ、という側面があります。
このような意味で、上記の記事にある大阪地裁の決定は、裁判員制度実施が迫る中での、任意性に関する解釈の変容(厳格化)を予想させるものとして、注目すべきものがあるのではないかという印象を受けます。
検察庁も、取り調べ状況の中で都合の良いところだけをつまみ食いして適当に記録しておけば大丈夫だろう、という安易な考えでは、この流れの中で大きく取り残されかねない、という危機感を持つ必要があるでしょう。