匿名性が排除された社会

犯罪者を検挙するためには、犯罪が誰によって行なわれたかを特定できる必要があります。匿名性が存在するからこそ、そういった特定が困難であり、世の中から匿名性というものが排除されればされるほど、犯人検挙は容易になって行くでしょう。その意味で、犯罪との闘いは、匿名性との闘いと言っても過言ではなく、かつ、犯罪にはあらゆるものが含まれ、当然、サイバー犯罪に限定されません。
匿名性排除を徹底しようとすれば、例えば、以下のような措置が考えられるでしょう。

1 個々の国民を、身体的特徴等で厳密に特定して把握し、そのデータを捜査機関が容易に使える状態に置く
2 日本に入国する外国人からも、1と同レベルの情報を取得、保有して捜査機関が使えるようにする
3 日本全国のあらゆる場所に監視カメラを張り巡らせ、長期間保存し、捜査機関が情報を容易に使えるようにする
4 人が、社会内で行うあらゆる行為(インターネットの利用だけでなく、買い物、交通機関の利用、いろいろな場所への出入り等)について、上記の1及び2で把握されたデータと連動させて記録し、個々の人間のあらゆる動きがたちどころにわかる状態にしておく
5 捜査機関が、必要と認めれば、人の活動に関する情報を、迅速かつ容易に入手できる制度を完備、確立する

ただ、上記のような各措置が徹底されればされるほど、それはそれは住みにくい社会になることは確実でしょう。どこに行っても監視され、行動は逐一記録される社会というのは、犯罪者だけでなく、犯罪とは無縁な人々にとっても、窮屈で息が詰まるような社会になることは確実です。
しかし、犯罪を防止し、起きた犯罪を解決するためには、匿名性をまったくの野放しにはできず、人々の行動に制限、制約が加わっても、やるべきことはやる、ということも必要な場合があります。要は、そういった相反する利益の対立の中で、どこにバランスを求めて行くか、ということが常に厳しく問われているということではないかと思います。
警察等の捜査機関が、上記のような意味での匿名性の排除を口にする場合、対立する利益への配慮は欠如していたり、申し訳程度にとどまっていたりしがちです。また、「犯罪に無縁な人に迷惑はかからない」といった、一見、もっともらしいロジックで語られがちです。
しかし、自由が制限されるということは、犯罪者だから構わない、善良な人々には関係ない、という簡単な問題ではなく、人の属性を問わず幅広く制限が及ぶということを見落とすべきではないでしょう。そして、一旦、失われてしまった自由を回復することは困難であり、特に、民主主義を支える存在である「表現の自由」が損なわれてしまえば、民主主義を維持することすら困難になりかねない、という、極めて深刻な事態にもなりかねません。
そして、「匿名性」というものも、単に悪用、濫用されているだけでなく、匿名性があってこそ表現される言論というものも存在すると思います(内部告発等)。世の中には、実名を出し、堂々と言論、表現活動ができる、それだけの力がある人々だけが存在しているわけではなく、そういった人々であっても、問題点を明らかにし世を正したいと思う場合がある、ということを忘れるべきではないと思います。
匿名性というものは、もちろん、無制約ではなく、一定の制約はやむをえませんが、過度に制限することは、言論、表現の自由の封殺にもつながりかねず、常に慎重な検討、議論が必要でしょう。
こういった大きな視点が欠けたままでの議論には、大きな危険性を感じずにはいられません。