さい銭ドロ果たせず おみくじは「大吉」 和歌山

http://www.asahi.com/national/update/0812/OSK200608110226.html

さい銭を盗みに神社に来たが、さい銭箱が施錠されていて盗めず、自分の将来を占おうと、隣のおみくじ箱からおみくじ2枚を盗んだという。1枚のおみくじは「大吉」。もう1枚を開こうとしたところ、不審に思って様子を見ていた宮司にとがめられ、同署に引き渡された。
捕まったから、もう1枚は「凶」ともとれるが、汐崎明・白浜署次長は「立ち直る機会ととらえれば『大吉』だろう」と話している。

この警察次長のコメントは、非常に良いですね。ミリエル司教に出会い、更生の道へと踏み出した「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャンのようになってほしいものです。
昔、レ・ミゼラブルで、一宿一飯の恩義あるミリエル司教のもとから銀の食器を盗んで警察官に捕まり引き立てられてきたジャン・バルジャンに対し、ミリエル司教が、あげたものだと庇い、他の燭台なども与えて、私のような者が持っているよりもあなたが持っているべきだ、あなたの精神をあがないます、と告げるシーンを読んで、キリスト教というものについて、決定的な印象を受けた記憶があります。名優ジャン・ギャバンジャン・バルジャンを演じるレ・ミゼラブルを観たときにも、このシーンが非常に印象的でした。
余談ついでに言うと、キリスト教に関連して、他の作品で強い印象を受けたのは、遠藤周作の「沈黙」でした。

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20050501#1114937218

最初、読んだときや、その後、しばらくは、善良な人々が幕府の過酷な弾圧に次々と殉教し、主人公が拷問に必死に耐えていても、何の助けも救いもないことが、非常に、不条理に思えて、この作品の言わんとしていることがよくわかりませんでした。しかし、その後、主人公が踏み絵を踏む前に、神が語りかけた言葉の中にキリスト教の本質があるのではないか、そこに信仰の本質があって現世における様々な苦難を乗り越えることにつながるのではないか、という考えを持つようになりました。