暴走する(?)「共謀」概念

最近、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20060417#1145282716

の中の「共謀共同正犯の意義と認定(出田孝一)」や、奥村ブログの

http://d.hatena.ne.jp/okumuraosaka/20060323/1143116163

に接したりして感じましたが、共謀概念の主観化が、「希薄化」「形骸化」へと進んでいるようで、強く憂慮されます。
上記の論文では、配下の組員(警護役のいわゆるスワット)がけん銃を携帯していた事案につき山口組の組長に共謀共同正犯の成立を認めた最高裁判例(最決平成15年5月1日)について、かつての練馬事件に関する最高裁判例(共謀共同正犯に関する著名な判例です)が、一見、客観的な「謀議行為」の存在を要するかのような表現をしていた点について、謀議行為は要せず「犯罪の共同実行の合意」があればよいとする実務の多数説を追認したものであると述べられています。
確かに、実務上、「黙示の共謀」も共謀の中に含まれるものと考えられており、謀議「行為」の存在ということに、あまりにも重きを置きすぎると、共同正犯の成立に実行行為の分担を要するというかつての通説と変わらなくなり、「共謀」を通じて相互に利用補充関係を形成して犯罪を実現するという共謀共同正犯の本質を見誤ることになりかねません。
しかし、「共謀」を上記のような主観面のものと捉えるとしても、主観面というものは、目に見えないものであり、共謀と評価するに値するものがあるかどうか、という観点から慎重な認定が行われないと、「共謀共同正犯として処罰したいと検察庁、裁判所が考えるもの」が共謀認定される、正に、共謀概念の希薄化、形骸化へ向けて暴走しかねないでしょう。
そして、ここにこそ、現在、反対論が巻き起こっている「共謀罪」の危険性が存在している、と思います。
非常に安易な共謀認定が行われるようになれば、国家権力なり捜査機関が、特定の人間を共謀罪で葬ろうとすれば、いくつかの共謀の証拠らしきものをそろえることで、簡単に逮捕、起訴し、有罪にする、ということができてしまいます。
インターネットの掲示板運営者と投稿者が、相互に何の人間関係もなく、単に、掲示板の運営と投稿、という点でしか接点がなくても、「合意」が認められ共謀認定がなされるという、共謀がそこまで希薄化してしまった世界では、何らかの心理状態が共通していて何らかの接点があれば共謀が認定されるという、考えてみれば恐ろしい事態が頻発しかねないでしょう。
上記の論文は、現役裁判官によるものですが、共謀概念のそういった危険性に思いを致した形跡は皆無で、感じられるのは、職業裁判官による共謀認定への絶大な自信であり、上記のような最高裁判例の出現に、よく「強気の刑裁」などと司法修習生に揶揄されるような、裁判所による一種の独善的な事実認定が今後もその傾向を強め、そこに共謀罪が法制化されるようなことになれば、確かに、恐ろしくて言いたいことをやりたいこともできない、という治安国家化、警察国家化、ということも、単なる杞憂では終わらないかもしれません。
かつては、こういった危険な流れに対し、いろいろな歯止めとなる勢力があり、国民の支持もそれなりにあって、バランスがとれていた側面もあったように思いますが、最近は、世の中の流れも変わってきて、必ずしも危険性等に思いが致されることなく、スローガン的な部分に目を奪われてある方向に一気に流れてしまう、という傾向が出てきているような気がします。
かつて捜査機関に身を置いていたものとして、犯罪を的確に処罰し国民の平和な生活を守る必要性は強く認識していますが、「まず処罰ありき」といった傾向には、強く疑問を感じますし、「共謀」の問題(共謀罪の問題を含め)についても、問題意識を持って今後とも検討して行く必要性を感じます。
上記の平成15年最高裁判例や出田論文を読んだ上で、共謀罪に関する法務省

「組織的な犯罪の共謀罪」に対する御懸念について
http://www.moj.go.jp/KEIJI/keiji30.html

を読むと、

そもそも「共謀」とは,特定の犯罪を実行しようという具体的・現実的な合意をすることをいい,犯罪を実行することについて漠然と相談したとしても,法案の共謀罪は成立しません。
したがって,例えば,飲酒の席で,犯罪の実行について意気投合し,怪気炎を上げたというだけでは,法案の共謀罪は成立しませんし,逮捕されるようなことも当然ありません。

などということが、気休めにすらならない、ということがよくわかります。相談すらしなくても、共謀が認定される以上、「漠然と相談」したりすれば、「具体的・現実的な合意をした」と決めつけられる可能性が極めて高いでしょうし、飲酒の席で犯罪の実行について意気投合し怪気炎を上げたりすれば、正に自殺行為と言っても過言ではなく、「具体的・現実的な合意」が悠々、楽々と認定されてしまうことは必定だと思います。
法務・検察も、法廷と国会・一般国民向けで二枚舌を使い分けるような真似はやめるべきでしょう。