談合体質

橋梁談合が立件されて、大きく報道されているが、私も、これまでに、仕事の中で、談合を取り扱ったことがあるので、事情はある程度わかっているつもりでいる。
特に強く感じるのは、いつまでたっても談合がなくならないのは、やはり「談合体質」が日本人の中に根ざしているのではないか、ということである。
日本人は、元々は農耕民族であり、農耕のためには、相互の協調、話し合いが不可欠である。例えば、稲作の上で不可欠なのは、「水」であり、限られた水を、皆が効果的に利用するためには、一種の「談合」が必須となる。そこに加わろうとしない者は、徹底的に排除され、つぶされる。同質性が非常に高く、同質性の中で「競争」の要素がほとんどなく(競争は、外部との間で行われるということになるのだろう)、「共存共栄」(最近の報道の中でもよく見る言葉であるが)がキーワードになると、談合が常態になって行くというのは必然的である。
しかし、日本の社会自体が、内向きに閉じた状態ではいられず、業界が一体となって、という状況でもなく、そもそも公正な競争が国民全体の利益になる(逆に不公正な競争は国民全体の利益を害する)という考え方が浸透すれば、上記のような談合体質は、厳しい批判にさらされて当然、ということになるし、そういった談合体質を引きずる限り、刑事事件として立件されたり、小菅の巨大な別荘で別荘暮らし、といったリスクを負いながら仕事をするということになってしまう。
人間の物の考え方や体質、といったものは、一朝一夕で変えられるものではないので、談合体質を変えるのも難しいことではあるが、この辺でそろそろ抜本的に変える努力をしないと、同じ愚行を繰り返しているだけになってしまうと思う。