「LS生のブログ記事に垣間見える制度の問題点」について

http://blog.livedoor.jp/datusara/archives/13275089.html

私も、ここで指摘されている点が、現状での大きな問題点ではないかと感じている。一昨日、法科大学院について、ある雑誌の取材を受けたが、その際にも、そういった感想を述べた。
既にこのブログでも指摘したが、特に法律初学者に対しては、まず慣れるところから始めて、段階を踏んで教育する、という配慮が十分に行われるべきである。従来の司法試験に向けた勉強でも、いろいろな問題はあったが、法学部が設けた組織(例として、早大の法職課程教室)や、学生の自主的な勉強会、実務家や司法試験合格者といった先輩による後輩の指導、予備校の利用、といった、各種の手段を組み合わせることにより、そういった教育が行われていたと思う。
現在の法科大学院でも、そういった点に対する配慮が行われているところはあると思うが、おそらく一部であり、多くの法科大学院では、実質的な意味での既習者が多いと、「この程度のことは皆さん知ってますね」といった、初学者に配慮のない教育が行われているのではないか。そうなると、本来の意味での初学者として法科大学院へ入学した人は不幸だし、上記のような各種の手段のうち、合格者の知人等がいないと手っ取り早く利用できるのは予備校くらいなので、予備校を利用しようとすると、法科大学院関係者は、予備校を諸悪の根元のように悪し様に言うし、ということで、どうしてよいかわからなくなるだろう。非常に困った問題であると思う。
また、上記の取材の際、取材者が、先日発表された新司法試験のサンプル問題について、ある法科大学院の関係者から、「法科大学院の教育レベルを超えた部分がある。」という話を聞いた、と述べていた。それについて、私は、「現行司法試験にしても、新司法試験にしても、1年なり1年半なりの司法修習を経た後に実務法曹としてやっていけるかどうかを見る内容のものである。そういう性質上、一定以上のレベルの内容になるのは必然で、法科大学院のレベルにあわせて試験のレベルを下げるということはありえない。法科大学院の教育レベルを超えた部分がある、というのは、その法科大学院の教育内容が、新司法試験のレベルに到達していないということではないか。」といった趣旨のことを述べた。
以前から言い尽くされていることであるが、学者が、自分の興味の赴くままに、世の中の役に立つ立たないに無関係に、好きな研究をするのは自由である。数千年前のどこかの外国で、こういう法律があってこういう運用をされていたとか、明治時代の日本のどこかで、こういう特殊なルールがあって変わった運用をされていたとか、研究するのはおもしろいと思うし、研究成果を世に問うのも結構である。
しかし、そういったことは、実務法曹になる上では、「不要」と言っても過言ではないし、そういうことを学んでいる暇があったら、もっと大切なことが数限りなくある。法科大学院生に対して、予備校を諸悪の根元視して、予備校なんかには行くな、などと言うのであれば、法科大学院として、そのカリキュラムをきちんとこなしていれば、新司法試験に十分合格できる程度の能力が身につけられるような教育を行う必要があるだろう。現状で、そういった意識をきちんと持って、自分の学問的な興味はとりあえず措いて、学生に新司法試験に合格できる能力を身につけさせる、という教育を行っている人が大多数を占めていれば、上記のブログで引用されたような感想は出ないのではないか、と感じる。
いずれにしても、来年から始まる新司法試験で、それぞれの法科大学院の教育内容がシビアに検証されることになるし、美辞麗句を並べ立てているように見える法科大学院関係者が携わっている法科大学院についても、厳然たる結果が出るのは間違いない。