「新旧司法試験合格者数に関する声明」に関連して

そろそろ寝ようかな、と思いつつ、町村教授のブログを見ていると、

http://matimura.cocolog-nifty.com/matimulog/2004/10/opinion.html#more

で紹介されていた。町村教授も、「またまた、ある方面からは百叩きに遭いそうな話だが」とコメントされているが、この内容では、百叩きどころか、千叩き、万叩きになると思う。私は、ロースクールで非常勤講師をしているし、ロースクールには同情的だが(単なる感情論ではなく)、こういう声明を出しているようでは、理解を得ることは難しいと思う。何点か指摘しておく。

法科大学院制度の創設を提言した司法制度改革審議会意見書は、法科大学院の教育について、「その課程を修了した者のうち相当程度(例えば約7〜8割)の者が新司法試験に合格できるよう、充実した教育を行うべきである。」とした。同提言に応えるべく、全国の法科大学院は、「法曹養成に特化したプロフェッショナル・スクール」(改革審意見書)に相応しい教育の実践に向けて懸命の努力を払っている。また、学生達もこれに応え、毎日大量の予習課題をこなし、文字通り寝食を惜しんで学修に取り組んでいる。法科大学院制度は、その理念に向かって予定通りに船出したのである。

意見書で、「充実した教育を行うべきである」としたことと、「実際に充実した教育が行われていること」は、全くの別問題だろう。「懸命の努力」「寝食を惜しんで」などとあるが、それが、充実した教育として行われているかどうかについては、この声明は、巧みに触れていない(触れられないのだろう)。また、「理念に向かって予定通りに船出した」というところで話を止めており、「船出」などという、きれいな言葉を使い、船出した後に実際どうなっているか、ということから、読む者の目をそらしている。冷静に読むと、「努力して頑張っているんだから、それだけで評価すべきだ」という、図々しい主張にしか見えない。学生の論理というより、運営する学校の論理であろう。「学生達もこれに応え、毎日大量の予習課題をこなし、文字通り寝食を惜しんで学修に取り組んでいる。」とあるが、実際は、「学生達もこれに渋々つき合わざるを得ず、毎日、大量の予習課題を、わけもわからないままこなし、文字通り寝食の時間も奪われたまま学修に取り組まされ、徒労感にさいなまれている。」といったところではないか。実態に対する反省がないところに、おめでたいロースクール側の意識がにじみ出ている(こういうのも「浮世離れした」と言うのだろう)。

学生の意識・関心は、法科大学院における地道な学修よりも、新司法試験における競争のための受験勉強に傾き、法科大学院教育そのものを変質させて、「点による選抜」から「プロセスとしての法曹養成」への転換(改革審意見書)を企図した法科大学院制度による教育の理念を根底から揺るがすことになろう。そして、将来の日本社会が必要とする専門的能力を備えた法曹を養成するために多くの法科大学院が用意した多様な先端科目・実務科目や留学制度等は、まったく省みられない結果となるであろう。

典型的な「論理の飛躍」であろう。新司法試験の合格率が、仮に8割になっても、2割は不合格になる。5人に1人は落ちるのである。当然、そこには競争があるし、競争のための受験勉強がなくなることはあり得ない。それにもかかわらず、「地道な学修」(実体がよくわからないのでコメント自体が困難だが)と、「競争のための受験勉強」というものを、あたかも両立し得ないもののように対比して、後者により前者が困難になる、「法科大学院制度による教育の理念を根底から揺るがすことに」なる、などというのは、あまりにも飛躍が過ぎよう。合格率が上がっても、ロースクール生は、地道に勉強しなければならないし、競争のための受験勉強もしっかりやらなければならない。法曹としての道を歩めるかどうかについての厳しい選別を回避はできないのである。ロースクールとしては、中身を充実させて、ロースクール生が「競争のための受験勉強」により被る負担をできるだけ軽減するのが先決なのに、そういう意識が欠如している。これでは、司法試験とは無関係に、浮世離れした講義でも好き勝手にやりたいんだろうと勘ぐられても仕方がない。なぜ、「競争のための受験勉強」が行われると、「多様な先端科目・実務科目や留学制度等」が省みられなくなるのかも、不明である。それはそれで、しっかり教育すればよいではないか。受験勉強に身を入れた程度で省みられなくなる程度の、底の浅い中身しか提供できないほうが問題であろう。おそらく、そういった自信のなさが、上記のような一節に現れているものと思う。

新司法試験の合格率を引き上げるべきであるという主張は、ともすると法科大学院独自の利益主張のように受け取られるおそれがないではない。

さすがに、ここまでエゴ丸出しで書いていると、気恥ずかしくなったのであろう。

しかし、これと同様の意見は、司法制度改革推進本部の法曹養成検討会、司法改革国民会議弁護士会その他さまざまなフォーラムにおいてもすでに表明されているところであり、広く支持を得つつある。

勘違いしないでほしいと思うのは、「合格率引き上げ」が議論される場合の「合格者」は、ロースクールで適正な法曹教育を受け法曹の道へ進むだけの資質があると認められた人のことを指しているということである。上記の文章は、そういった前提を巧みにぼかすことで、「合格率引き上げ」という果実だけをもぎとろうという意図が透けて見える。
そして、最も衝撃的な一節が。

そもそも法科大学院は、その設立母体となった各大学の独占物にとどまるものではなく、司法制度改革の一環としての公益的な目的を有するものである。各大学は、新たな時代に望まれる理想の法曹像を目指してカリキュラム等を工夫し、最大限の努力をもって法科大学院を設立した。これに呼応して、最高裁判所法務省弁護士会はいうに及ばず、さらには有志法曹や企業もが、教員の派遣や研修、学生研修などの面で、法科大学院の設立および運営のために多大なる協力と貢献をしている。それは、とりもなおさず、政府・国会によって法科大学院が新たな法曹養成システムの中核に据えられたことを踏まえ、これへの協力が法曹人口の量的および質的な抜本拡充という公益すなわち国民の利益のために不可欠であるとの認識に立脚してのことであるはずである。

自分たちは公益のためにロースクールを設立して努力してやっているんだ、最高裁をはじめとするいろいろな関係者も協力、貢献してくれているじゃないか、自分たちは法曹養成システムの「中核」にいるんだから、協力することが、公益すなわち「国民の利益」に不可欠じゃないか、ということでしょう、言いたいのは。
すごいエゴである。某匿名掲示板を見ると(中には、おふざけの投稿も多いとはいえ)、「最下位ロースクールはどこだ」などと、悲惨な状態で学生からも完全に見放されているようなポンコツロースクールの話が沢山出ている。私も、刑法総論で「学派の争い」(無駄だとまでは言わないが、実務法曹になる上でのウエイトは低いだろう)について、学生の迷惑も省みず、数回にわたる講義で延々と語り続けるロースクール教授とか、呆れ果てるような話をいろいろ聞いている。
そういった実態を棚に上げて(中には良質の教育を提供できているロースクールもあるが)、「各大学は、新たな時代に望まれる理想の法曹像を目指してカリキュラム等を工夫し、最大限の努力をもって法科大学院を設立した。」などと、平気で言えるところが恐ろしい(設立後の話がここでも巧みに回避されている)。
合格率引き上げを訴えるロースクール関係者の立場も気持ちもよくわかるが、私が繰り返し指摘しているように、ロースクール教育の中身について、今後、相当な改善を図って行かないまま、独善的な主張を繰り返しても、世間の理解は得られないし、そもそも、内部で学んでいるロースクール生の理解すら得られないのではないか。