修習を終えてからは、裁判官、検事と別々の道を歩み、接点がないままだったが、ある時、どこかで会う機会があり、自分が、まだ若くて検事検事したようなことを言ったら、それはダメじゃないか、という感じの言い方をされて、ちょっと厳しい顔をされたことがあった。なぜか、その場面を切り取るようにして覚えている。人への優しさ、権力の行き過ぎへの警戒心、批判ということを常に持っていた人だった。
自分は先に退官し、横山さんも裁判官を辞めて弁護士になり、挨拶状をもらった。そのことは、下記のようにブログに書いたのだが、横山さんらしい挨拶状だと思った。それまでもその後も、横山さんが送ってくれる年賀状で、細かい字で、自分の思いや目標などを書いていて、ズボラな自分は、真面目で几帳面な人だなー、といつも思っていた。
弁護士になり、次第に頭角を現して活躍していたことは、皆、知っていることなのでここでは繰り返さない。
昨年8月、41期の30周年の大会が有馬温泉であり、横山さんも参加して、皆で楽しく飲み語らい、会の翌日は、有志でタクシーに乗って神戸を観光して回った。その時の楽しい思い出は今でも忘れがたい。
その後、約1年、横山さんは駆け足で去っていった。
6月にお見舞いに行って、新神戸駅の喫茶店で会った際、横山さんは今後のことを熱く語っていて、復帰の意欲は旺盛だった。自分も、なんとか復帰してほしかった。弁護士はたくさんいるけれども、横山さんにしかできないことは多く、彼を必要としている人が、今も、今後も多数いる。そのことがわかっているからこそ、横山さんは復帰したかったのだろうと思う。もちろん、仕事だけでなく、家族や周囲の人々への様々な思いもあっただろう。
人の人生は、長い時もあれば短い時もある。横山さんの人生は決して長いものではなかったが、やるべきことをやり、有意義な人生だったと思う。しかし、願わくば、もっと長生きしてほしかった。とても残念でならない。
横山さんの遺志、やり残したことを、残された我々ができるだけ受け継いでいくことこそ、我々の使命であり、それを、横山さんも喜んでくれることだろう。謹んでご冥福をお祈りしたい。
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