オウム真理教関連事件に直面した頃5

東京地検公安部としてオウム真理教関係で手掛けた事件の中で、最も多くの人が動いたのは、武器等製造法違反事件で、平成7年7月に関係者を一斉逮捕して捜査にあたった。
事件は、オウム真理教が、教団をあげて、ロシアのAK74という自動小銃(有名なAK47の後継、AK47より口径が小さく、より多くの弾丸を携行できる)のコピーを密造しようとしたというもので、結局、量産するまでには至らず、1丁か2丁程度の試作品を製造しただけで終わったというものであった。
公安部以外からも応援検事が投入され、かなりの捜査態勢になって、20名前後(正確な数は覚えていない)の被疑者を逮捕、勾留して、取調べを行った。末端の信者が多く、完全黙秘とか、それに近い者が多くいて、取調べには苦労させられたという印象が強い。私が取調べていたのは、自動小銃の重要な部品製造に従事していたという者で、当初は完全黙秘状態であったが、粘り強く取調べを続ける中で、次第に供述が得られるようになり、かなり重要な供述も得られて、真相解明にはかなり貢献することができた。しかし、その年の4月以降、休みも皆無の状態で働き続けていたので、この頃になると、疲労感がものすごく、自分としても、そろそろ限界に来ているということを感じていた。
7月下旬に、武器等製造法違反事件の処理が終わり、8月中旬くらいまで、公安部でも、何とか交代で夏休みが取れることになって、私は、確か8月上旬から中旬の1週間程、夏休みを取った記憶がある。身体を休めることを最優先させたが、ここで休んだことで、疲労感がかなり軽減され、一息ついたような状態になった。まだ若く、ちょっと休めば回復も早かったが、今、あの頃のような生活をすれば、とてもそのような回復は望めず、そもそも、あのような過酷な生活はとてもできていなかったのではないかと感じるものがある。
(続く)

オウム真理教関連事件に直面した頃4

平成7年から平成8年当時の、公安部に在籍しオウム真理教の事件を担当している頃の私の生活は、次のようなものであった。
深夜まで仕事をして、帰宅するのは午前1時、2時という状態なので、朝は、何とか午前10時前後に出勤し、出勤すると、午前中は、部屋にあるテレビでニュース等を見ながら、配布されてくる資料(供述調書、捜査報告書、取調べメモ等々)に目を通し検討していた。午後は、割り当てられた参考人の取調べを行ったり、取調べがなければ、夜の被疑者取調べのため、様々な情報の「仕込み」を行いながら過ごすことが多かった。
相手にする被疑者が一筋縄では行かない者ばかりのため、追及したり説得したりする「ネタ」が必要で、かなり時間をかける必要があり、検察庁を抜け出して書店へ行き、仏教とかチベット密教などの本を買い込んできて読んだりすることもあった。今ならインターネット検索を駆使して情報を収集しているところであるが、当時は、まだインターネット普及前の時代で、「紙」の情報に依存せざるを得なかった。
夜になると、自分が担当している被疑者を取り調べるため、留置されている都内の警察署へ出向いて、そこで、昼間は警察官が取り調べている被疑者を、警察官に代わって取り調べるということをやっていた。なかなか取調べが進捗せず、苦労していたことが思い出される。取調べが進捗するかどうかで終了時間は異なり(早くて午後9時ころ、遅ければ午後10時、11時まで)、終了後、取調べ担当の警察官と警察署内で打合せを行い、検察庁に戻って、その日の取調べ状況について報告文書を作成し、主任検事のところへ行って口頭で報告、ということをやっていた。その後、その日の整理をしたりしていると、午前零時、1時ころになり、終電もなくなっているので、同じ方面に住んでいる別の検事と一緒にタクシーに相乗りして帰宅、という状態で、土曜日も日曜日もなく、こういった生活の繰り返しであった。
まだ若かった(平成7年の時点で31歳)から何とかやっていたようなもので、今ならとてもこういう生活は無理であったと思う。当時、事件の主任検事を務めていた先輩検事は、かなり辛そうであり、今になってみると、先輩検事の辛さはよくわかる。
特捜部では、こうした生活を数か月間、続けざるを得ないこともあり、内部でやっている人間にかかる負担には多大なものがある。体力がないととてもやっていられない。
(続く)

誤認逮捕「本当に悔しい」 愛媛の女子大生手記公表

誤認逮捕「本当に悔しい」 愛媛の女子大生手記公表 :日本経済新聞

手記によると、女子大生は一貫して容疑を否認。逮捕前に任意の取り調べを2回受け、県警から「タクシーに乗った記憶はないの?二重人格?」「就職も決まってるなら大ごとにしたくないよね?」「今の状況は自分が認めないから」などと言われた。代理人弁護士は「取り調べの際に大声を上げるなど威圧的な言動もあった。自白を取るための捜査に怒りを覚えた。再発防止を徹底してほしい」と話した。

 私が若手検事の頃に読んでいた取調べ方法に関する本(警察官出身者が執筆したものが多かった)では、自白させるという強い信念を持って取調べに臨めとか、真犯人であることに疑念を抱くな、抱けばそれを見透かされて自白は得られなくなる、といった心構え的なことがいろいろと書いてありました。その一方で、海外では

自白―真実への尋問テクニック

自白―真実への尋問テクニック

  • 作者: フレッド・E.インボー,ジョセフ・P.バックリー,ジョン・E.リード,小中信幸,渡部保夫
  • 出版社/メーカー: ぎょうせい
  • 発売日: 1990/02
  • メディア: 単行本
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 といった本(これは米国ですが)も出ていて、科学性を持ったテクニックを追求しようというスタンスはありましたが、上記の本は、技巧が過ぎて中には芳しくないトリッキーな手法も紹介されていて、あまり感心しないな、と思いながら読んでいたことが思い出されます(おそらく、現在ではアメリカでも否定されているような手法も紹介されていると思います)。

取調べの可視化の流れが強まる中、どうすれば自白が獲得できるのか、適正さを大前提とした適切なテクニックは、日本で、ほとんど全くノウハウが確立も共有もされていないのが、おそらく実態で、今だに、上記のような旧態依然とした自白の強要が日本全国各地で繰り返されている可能性が極めて高いでしょう。

取調べを、追及の要素を排除した、単なるインタビューにするのも1つの考え方ですが、真相解明のための手段と位置づけるのであれば、効果的な取調べ手法を科学的に確立していくことを、捜査機関として組織的に行っていかないと、取調べはますます捜査の暗部化し、真相解明から遠のくことになってしまうでしょう。

いくら科学捜査が進んでも、事件では常に犯人しかわからないことがあることも事実です。

また、取調べは、真相解明だけでなく、犯人ではない人物を早期に捜査対象から外す、フィルタリング機能も持っています。上記の事件でも、そういう発想が取調官にあれば、もっと違った取調べになっていた可能性があります。そこも軽視されてはならないと思います。

 

 

 

 

「下山」「松川」は未解決=国鉄三大ミステリー事件

「下山」「松川」は未解決=国鉄三大ミステリー事件(時事通信) - Yahoo!ニュース

国鉄初代総裁の下山定則氏の遺体が見つかったのは、三鷹事件直前の49年7月6日。前日朝の出勤途中に行方が分からなくなり、6日未明、東京都足立区の線路上で、れき死体で発見された。
連合国軍総司令部GHQ)から迫られた国鉄労働組合員らの大量解雇に苦慮していたとされ、当初から自殺説、他殺説が入り交じった。大きな進展のないまま64年、殺人罪の時効が成立した。

三つの事件は、共産党員を公共機関や重要産業から追放する「レッドパージ」のはしりとされ、労働運動弾圧のために仕組まれた謀略との見方も強く残っている。

 元東京高検検事長を務めた藤永氏の著書

特捜検察の事件簿 (講談社現代新書)

特捜検察の事件簿 (講談社現代新書)

 

 の中で、下山事件当時、東京地検で主任検事だった布施氏(その後、検事総長)との会話が出ていて、布施氏が藤永氏に、下山事件について、被疑者が海外にいれば時効は成立していない、と述べる場面が出てきます。布施氏は、他殺説に立っていたとされていて、その発言はそれを裏付けるとともに、被疑者が(少なくとも一部は)海外にいる、と見ていたことを裏付けています。海外にいる被疑者、といえば、戦後、作家の鹿地亘を監禁していたキャノン機関のような、GHQや連合軍等の息のかかった組織、人物を想定していた可能性が高いでしょう。

記事では「時効が成立した」とされていますが、その意味で、時効は成立していない可能性があります。

オウム真理教関連事件に直面した頃3

オウム真理教の中に、諜報省(国家の機関を真似た組織になっていた)という機関があり、既に死刑が執行された幹部信者が大臣を務めていたが、私が所属していた公安部では、諜報省関係の事件を手がけることが多かった。
起訴され有罪判決が出ているもので言うと、警察の運転免許試験場にデータを求めて侵入する、自衛隊幹部宅を盗聴する、宗教団体幹部宅を見張るために偽名を使って部屋を借りる等々の、それ自体としては凶悪、重大事件とは言えないものの、教団としての狙い、目的といったことが色濃く出てくるような事件が多かった。
どこまで現実性があったか、という問題はあり、荒唐無稽さはつきまとうものの、オウム真理教が、国家機関を真似た組織にしていたことにも現れているように、日本を支配するといったことを夢想していた面はあったのではないかと、振り返って感じるものがある。この種のカルト教団が、閉鎖性の中で暴走する危険性というものは、欧米では以前から実例があり、その危険性が指摘されていたが、それが現実のものとして国民の前に現れたのは、オウム真理教事件が初めてであった。教団の中には、化学者など優秀な頭脳が多数いて、サリンを作ったり、武器製造(ロシアのAK74、ただ、実際に製造したのは2、3丁程度)にあたったりと、人知れず、日に日に危険な存在へと発展し、それが現実のものとなったのが、松本サリン事件であり、地下鉄サリン事件であった。
信教の自由は最大限保障される必要があるものの、一旦、暴走し始めた際の危険性、国民の生命、身体、財産に害をなさないためにはどうすべきかということを考える上で、オウム真理教事件は多くの教訓を残したが、それらが生かされているかというと、十分に生かされているとは言えないのではないか、というのが現在の私の印象である。そこは、今後に残された大きな課題ではないかと思う。

その意味で、オウム真理教事件は、まだ終わってはいない。令和の時代になっても。
(続く)

田口被告、判決期日取り消し=元KAT-TUN、検察請求-東京地裁

田口被告、判決期日取り消し=元KAT-TUN、検察請求-東京地裁(時事通信) - Yahoo!ニュース

29日、検察側の請求に基づき、30日に予定していた判決期日を取り消した。
次回期日は未定。

特に問題がない事件で、判決直前に判決期日が取り消されて延期になる、ということは時々起きますが、検察官請求証拠に足りないところがある、ということが、原因としてはほとんどですね。 

薬物事件の場合、第1回公判で1回結審、次回に判決ということが多く、上記の事件もそのような経過をたどっていますが、裁判官は、第1回の公判中に証拠は見ているものの、公判進行中に見ていて精査まではできないので、判決前に記録をチェックしていて不足を発見する、それで判決が延期になる、ということが起きがちです。

割とあるのは、薬物事件の場合、押収されている薬物は没収が義務付けられていますが(必要的没収)、被告人以外の第三者の所有である場合、公告手続を行う必要があり、その期間が過ぎないと没収できないところ、検察官が公告手続をとっていなかったり、手続が遅れて、それで判決が延期になることがあります。

上記の事件の場合、どのような原因か、記事に書いていないのでわかりませんが、事件としては問題ないものだったようなので、そういった証拠品関係の手続に何らかの問題があったのかもしれません。あくまで推測、可能性ですが。

 

犯罪の”加害者”を支援する… 全国初の条例を施行した明石市、その「支援現場」を取材

犯罪の”加害者”を支援する… 全国初の条例を施行した明石市、その「支援現場」を取材(FNN.jpプライムオンライン) - Yahoo!ニュース

この条例は、知的障害や精神疾患などを抱え、繰り返し罪を犯してしまう人などを対象に、適切な行政サービスなどを受けることが出来るように、支援することが目的だ。
明石市更生支援担当職員:
過去に罪を犯してしまった人も刑事手続きを終えれば地域に帰ってくるわけなんですが、そこでまた孤立してしまうと生活に困る、生き辛さにつながって、再び犯罪をしてしまうかもしれない。そういった方が地域で立ち直るために、必要な行政サービスを適切に提供する。
法務省の資料によると、近年、犯罪の検挙人数は減少傾向にありますが、再犯者の人数は、ほとんど減っていないため、検挙された人数に占める再犯者の割合は高くなっている。

 犯罪防止対策は、犯罪白書の特集でも取り上げられるくらいの、刑事政策上、重要なテーマです。ここをうまく乗り越えられれば、日本における犯罪はさらに大きく減るでしょう。

そのためには、上記のような、社会としての犯罪防止への取り組みが重要であり、明石市のケースは注目すべきものです。感情的には「加害者支援」に抵抗を感じる人々も少なくないことは理解できますが、再犯が防止されることで、それだけ社会が、人々が被るダメージが減ることになり、大きな視野で見て取り組むことが必要だと思います。

今後、こういった動きがどこまで広がるか、注目されるものがあります。